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ストーリー
東京が燃えた日~東京大空襲~
1939(昭和14)年に始まった全49カ国が参戦し、全世界的規模の戦争となった第二次世界大戦中。この戦争中に連合国による東京(区部)への空襲は、1942(昭和17)年~1945(昭和20)年まで、60回以上の空襲がありました。
なかでも一番大きい被害を受けたのは、1945(昭和20)年3月10日。深夜0時08分に約300機のB29爆撃機が東京上空に飛来し、約2時間半で33万発(約1700トン)の焼夷弾を集中投下した東京(下町)大空襲です。
現在の江東区・墨田区・台東区(当時の深川区・本所区・城東区・浅草区・日本橋区)の一帯を中心に、甚大な空襲被害を受けました。
一帯が一瞬で焼け野原に
この夜間空襲により、江東区、墨田区、台東区はほぼ壊滅。一晩で約10万人が亡くなり、負傷者4万人、罹災者100万人、燃え尽きた家屋は東京全体で27万戸ともいわれています。
当時、木造家屋が密集していたため、強風の影響による激しい上昇気流も発生し、周囲の人や物が上空に浮き上がる大火災も発生。
まるで大草原の野火のように巨大な炎が街を包み込みました。最終的に鎮火をしたのは朝8時過ぎで、わずか2時間半ほどの空襲で、区部の市街地の約50%、区部面積の約25%の約140 km²が焼失し、東京の下町は廃墟と化しました。
歴史を語り継ぎ、そして守り抜くもの
このあたり一帯は焼夷弾による炎と黒煙に包まれ、逃げ場を失った多くの人たちが悲惨な最期を遂げることとなります。株式会社堀ビルヂングの創業者である堀敬吾の妻、堀㐂代はこの空襲の犠牲者を供養し、二度とこの悲史が繰り返すことのないようにと願うため、戦後まもなく戦災無縁地蔵尊を堀ビル敷地内に建立しました。命をかけてこの地を守り、復興した先人の苦労と感謝を忘れないために……
写真提供・監修 /東京大空襲・戦災資料センター(江東区深川)